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Cinema de 温故知新

生誕100年を迎える名匠・川島雄三監督。その足跡を振り返る。

 2018年は川島雄三監督の生誕100年にあたる。これを記念して衛星劇場では、2月から川島監督作品の大々的な特集を企画中だ。

 川島雄三は1918年2月4日、青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)生まれ。生家は代々伝わる酒屋で、幼い頃から成績優秀で運動は苦手、読書好きな子供だったという。

 明治大学専門部文芸科に在学中は映画研究部に属し、大学卒業と共に松竹大船撮影所監督部に入社。同撮影所初の助監督公募で2000人の応募の中から8人の採用に選ばれたエリートであった。

 もっとも、この頃から筋委縮性側索硬化症を患い、当時居候していた撮影所前の食堂の娘との縁談話が持ち上がったときも、子どもが作れない体であることを理由に断っている。彼の作品群全体に精通するシニカルで客観的な視線は、自身の病気に根差すところも大きかったようだ。

 助監督としては島津保次郎や吉村公三郎、木下惠介監督作品につき、1944年に監督昇進試験に首席で合格し、織田作之助原作の『還って来た男』で監督デビューを果たす。織田とはこの後も親交を深め、スタッフにも彼の作品を読むよう、よく勧めていたという。

 戦後に入り、1946年の『ニコニコ大会・追ひつ追われつ』では日本映画初のキスシーンを撮影。松竹時代は『シミ金のスポーツ王』(49)『とんかつ大将』(52)など喜劇を中心としたプログラムピクチュアを量産したが、シニカルな笑いの中にも新人若手時代ならではのみずみずしさを湛えたものが多く、この時期の彼の作品群を評価する川島映画ファンは多い。

 1954年に日活へ移籍し『銀座二十四帖』(55)、『洲崎パラダイス赤信号』(56)や『幕末太陽傳』(57)など日本映画史に残る傑作を発表。“日本軽佻派”を自認し、後に“重喜劇”とも称されるようになる彼の露悪的ながらも、都会を好んで舞台に据えたハイセンスな作風は、この日活時代にひとつの完成形を迎えたといってもいいかもしれない。

『還って来た男』

 ちなみに、『幕末太陽傳』に出演した南田洋子に取材させていただいたときの談では、川島監督はどこか斜に構えつつも常に粋でオシャレな風貌で、スタッフ&キャスト問わず現場の女性たちからモテモテの憧れ的存在だったとのことである。

 1957年には東宝系の東京映画に移り『グラマ島の誘惑』(59)や『接吻泥棒』(60)など引き続きユニークな作品群を発表し続けていくが、その傍らで大映にも出向して『女は二度生まれる』(61)『雁の寺』(62)『しとやかな獣』(62)といった若尾文子主演の川島大映3部作ともいえる名作群を撮っている。

 自身の病気のこともあり、給料の大半を投じて世界中の秘薬を買い求める、今でいう健康オタクだったが、その一方で酒もやめられなかった。それが災いしてか、『イチかバチか』が公開される5日前の1963年6月11日、芝の自室にて45歳の若さで急死。死因は肺性心であった。

 井伏鱒二に傾倒し、中国・唐の時代の詩人・干武陵の詩集を彼が訳した『厄除け詩集』に収録されている「サヨナラダケガ人生ダ」という科白をこよなく愛した。『貸間あり』(59)の劇中、桂小金治にこれを言わせているほどだが、彼の作品群に精通する人生のむなしさやはかなさといった諦念は、幼い頃に母を亡くしたこととも無関係ではないとする向きもある。

 川島監督が生涯に遺した映画は51本。衛星劇場では今回、このうち可能な限りのものを放送する予定である。乞うご期待!